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| | 【2024/04/20 19:52 】 TOP▲
1982年、『Interview』、MJ&キング・オブ・ポップアート。Part.1
雑誌『Interview』1982年10月号、マイケルが表紙を飾ったこの号のカヴァー・ストーリーでは、ゴージャスなことに、KING OF POP ART、アンディ・ウォーホルが後半に電話をかけてきます。
2009年9月号にインタビューの一部が復刻されていますが、せっかくなので当サイトではロング・バージョンでご紹介します。

この時点でマイケルは23歳、もうすぐ24歳という夏です。アルバム『スリラー』のレコーディングがほぼ終わっている話し方をしていますが、リリースはまだ先。MJがキング・オブ・ポップになる前で、家族と一緒に住んでいる頃です。マイケルが自分の好きなものの話になると口癖のように「魔法だね(magic)」を連発しているインタビューとしても知られています。

Part.1
編集者ボブ・コラチェロとマイケル、制作の近況や、親しくしている友人たち、子ども時代のかすかな思い出、ステージでの「magic」について話します。

The Very Private World of Michael Jackson (Interview Magazine; 1982)
By Andy Warhol and Bob Colacello
1982年8月20日(金)、3:30 p.m.
サン・フェルナンド・ヴァレーにて

ボブ・コラチェロは、自宅の改装のためマイケル・ジャクソンと家族が近くに最近借りているコンドミニアムを訪れた。マイケル、誰もがジャクソン5のリード・シンガーとして記憶している少年は、自身の実質的なソロ・キャリアを打ち立てており、前作『Off the Wall』は、アメリカだけで500万枚を売り上げた。現在はジャクソンズとして知られる彼の兄弟たちとレコーディングを行う一方、マイケルは、ポール・マッカートニー、クインシー・ジョーンズ、ダイアナ・ロス、スティーヴン・スピルバーグといったスーパースターたちとの共演にも幅を広げている。彼らは皆、親しい友人でもある。ニューヨークのアンディ・ウォーホルからの電話を待つ間、BCとMJはもう一人の親友、ジェーン・フォンダについておしゃべりを始めた。
     雑誌『Interview』、1982年10月号。
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Michael: ヘンリー・フォンダが亡くなった夜、僕もそこに出かけて家族と一緒にいたんだ。みんな話したり、それぞれ別のニュースを見たりしてた。お父さんが亡くなったっていうのに、それでもジェーンは僕の仕事に興味を示してくれて、僕にフィルムはもうやってるの、と尋ねてくれた。僕はとてもスウィートだなって思った。彼が亡くなることはみんなもう長い間わかっていたんだと思う。何か月も何か月も何か月も前に、彼女がいつそうなってもおかしくないって話していたんだ。そしてそうなって、時々涙、時々笑顔、みんな少しだけ食べていたよ。

BOB COLACELLO: で、何をしてたの?映画に取り掛かってるの?

Michael: えぇと、今はアルバム(『スリラー』)を終えたばかりで、それに集中してたよ。別のアルバムもやってて、『E.T.』のアルバムなんだけど、同時進行さ。そのアルバムは僕には少し新鮮だよ、僕は物語の朗読はやったことがなかったから。

BC: 『E.T.』のアルバムって何?

Michael: ストーリーブック・アルバム2枚組で、僕は物語全部を朗読して、歌も歌ってる、これは僕らが考えて書かなくちゃいけない。それについてスティーヴン(・スピルバーグ)と会って話だけはしてきているんだ、どれくらい一緒にできる時間があるかわからないけど、今までにないストーリーブックのアルバムにしたいんだ、ってね。

BC: 君が作ってるそのアルバムは、すべて自分で書いてるの?

Michael: 僕は4曲か5曲書いた。

BC: スティーヴ(・ルベル)が僕に言ったんだけど、ポール・マッカートニーと何かやっていたんだって?

Michael: うん、ポールがここに来て、僕が書いた『The Girl Is Mine』という曲を一緒に歌ったんだ。僕らは歌のなかの女の子をめぐって戦うんだけど、それは彼のアルバムにも見事に登場するよ、僕らは2曲を一緒に書いて歌ったんだ。彼の『Tug Of War』パート2だね。でも僕のアルバムの方のは、僕が書いた曲なんだ。最後にラップのパートがあって、そこで僕らは彼女をかけて戦うのさ。可笑しいよ。

マイケル・ジャクソンとダイアナ・ロスBC: 君は他のスターたちと共演することに対してとてもオープンだよね。多くの人はそうじゃないけれど。

Michael: そうでもないよ。全然。

BC: ダイアナ・ロスとは仕事した?

Michael: 本当にすごく特別な人だよ。つまり、ダイアナは僕にとって、母であり恋人であり友達なんだ。彼女はワンダフルだ。僕は彼女の次のシングル『Muscles』を書いてプロデュース、編集をしただけだよ。

BC: 歌詞も君が書いたの?

Michael: 歌詞、音楽?終わったばかりで、今月末には出るはずだよ。

BC: そういう作曲をする時間はいつ見つけるの?

Michael: 飛行機の上だね。ポール・マッカートニーのアルバムの制作でのイギリスからの帰りにコンコルドで飛んでいて、そしたらこの歌が僕の頭にポンと浮かんだ。僕は、ヘイ、これダイアナにピッタリじゃないか!って言ったんだ。僕はテープ・レコーダーも何も持っていなかったから、3時間ほども苦しまなきゃならなかったのさ。家に着くなり、僕はそのベイビーをテープにビシッと吹き込んだんだ。

BD: 政治には少しは注意してる?

Michael: その話はしたくないな。

BC: ジェーン(・フォンダ)といて、まったくその部分には入り込まなかったと?

Michael: いや、そんなことはないよ。彼女は素晴らしい。彼女はあらゆることを僕に教えてくれる。『ゴールデン・ポンド』のセットにいた時、僕は船室の中でジェーンと水の上で二人きりでいたんだ。そこで二人でただあらゆることについて話して話して、話したよ。僕にとっては最高の教育だよ、彼女も学び、僕も学ぶ、お互い競い合うようにね。ぼくたちはあらゆることについて話した、何と呼んでも良いけど、政治、哲学、人種差別、ベトナム、行動すること、あらゆることだよ。魔法だった。

BC: 君はどこで教育を受けたの?君は常に注目されるよね。

Michael: 私立学校と家庭教師。

BC: インディアナ州のゲイリー出身だよね?そこではどんなふうに育ったの?

Michael: 実際のところ、僕はすごく小さかったから覚えてないんだ。僕は5歳でツアーして、歌って踊ってた。いつも出かけて、いつも学校の外。覚えてるのはちょっとしたことだけ、角のお店とか、何人かのご近所さんとか。家の裏の高校に、いつもトランペットやトロンボーンやドラムのあるビッグ・バンドがあって、通りにやって来るんだ、それが大好きだったなぁ、パレードみたいにね。思い出せるのはそれだけだよ。

BC: 子どもだった君はパフォーマンスするのが好きだった?常に好きだったの?

Michael: 常に好きだったよ。ステージの上の感覚をいつも楽しんだ。魔法が起きるんだ。ステージに上がると、まるで突然どこかから魔法がやって来て、スピリットが僕を打って、僕自身コントロール不能になるんだ。ローズ・ボウルでのクインシー(・ジョーンズ)のコンサートで僕はステージに上がったんだけど、僕はステージに上がりたくはなかったんだよ。僕はかがんで隠れて、彼が僕を見つけないと良いなと思いながら、他の人の影に隠れていたら、彼が僕を呼んだんだ。それで僕はそこに上がって、クレイジーになったわけ。僕は足場とかスピーカー、照明器具に登ってね。観客は夢中になってくれたし、僕は踊って歌い始めた、それが実際起こったことなんだ。

Part.2 につづく 
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BILLIE JEANホーム1982年、『Interview』、MJ&キング・オブ・ポップアート。Part.2
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