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| | 【2017/06/23 05:28 】 TOP▲
2001年、オックスフォード大学での講演。Part.3
 Part.2 からの続き

Part.3
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子育てはダンスのようだといわれます。親が一歩踏み出すと、子どもも足を踏み出す。親が子どもたちのために再び愛を捧げることは、物語の半分に過ぎないと私は気づいたのです。もう半分は、子どもの側が親を再び受け入れる準備をすることです。

とても小さい頃、あるクレイジーな犬を飼っていたのを思い出します・・・この犬は「おバカ」な犬で、ブラックガールという名でした。狼とレトリバーの雑種でした。彼女は番犬としての役割を果たさないばかりか、とても臆病で神経質で、大きな音を立てるトラックや、インディアナ州を通過する雷にも怯えていました。妹のジャネットと私は、ブラックガールをとても可愛がりましたが、前の飼い主によって奪われた信頼感を取り戻すことはついにできませんでした。前の飼い主がブラックガールを虐待していたことは知っていましたが、何をしたのかはよく分かりません。でも何であれ、彼女が穏やかな心を失うには十分だったのです。

多くの子どもたちは今日、愛に飢えた傷ついた子犬のようです。そのような子どもたちは親に気を配ることなどできません。そのままにしておくと、独立心旺盛な子どもに育ちます。親元から離れ、去っていきます。ひどい場合は、親に恨みや怒りを抱き、その結果、親は自分のまいた種で、自らの首を絞めることになるでしょう。

今夜、ここにいる誰にも、このような過ちを犯してほしくないのです。だから私は、世界中の子どもたちに呼びかけているのです──今夜ここにいる私たちから始めましょう──親を許しましょう。放置されてきたと感じたとしても、許すのです。
彼らを許し、もう一度愛する方法を彼らに教えてあげましょう。

私にはのんびりとした子ども時代がなかったと聞いてもきっと驚かないでしょう。父と私との間の重圧や緊張は、よく取り上げられます。父は厳しい人で、小さい頃から私たち兄弟に本当に厳しく強要しました、最高の・・・彼は私たちを、できる限り最高のパフォーマーにさせたかったのです。父は愛情を示すのがものすごく苦手でした。愛していると私に言ったことは一度もありません。褒めてくれたこともありません。

私が素晴らしいショーを行えば、彼はまあまあのショーだと言ったものです。そして私がまあまあのショーをやったなら・・・・・・父は何も言いませんでした。

彼は他の何よりも・・・(ティッシュを下さい、すいません・・・)・・・彼は・・・・・・申し訳ない・・・・・・

彼は他の何よりも、私たちが仕事上成功することを望んでいるように思われました。その点、父の力はずば抜けたものでした。父はマネージメントの天才で、そのおかげで、私たち兄弟はプロとして大いに成功し、それが彼が強要した道でした。彼は私をショーマンとして訓練し、彼の指導の下、私は道を外れることはできませんでした。

でも私が本当に欲しかったのは、「お父さん」です。自分に愛を示してくれる父親が欲しかった。父はけっして、そうしてくれませんでした。目をまっすぐ見つめ好きだと言ってくれたことも、一緒にゲームをしてくれたこともありませんでした。肩車をしてくれたことも、枕投げも、水風船遊びもありません。

でも、4歳くらいの頃、小さなカーニバルで、父が私を抱き上げ、ポニーに乗せてくれたという記憶があります。それはちょっとした仕草で、たぶん5分後には、父は忘れてしまったことでしょう。しかし、その瞬間、私の心の特別な場所に、父への想いが焼き付けられました。子どもとはそういうものです・・・ちょっとした出来事がとても大きな意味を持つのです・・・大きな意味を持つのです。

私にとっても、あの一瞬がすべてとなりました。たった一度の経験でしたが、父に対して、そしてこの世の中に対して、私は良い想いを抱いたのです。

自分自身が父親となり、ある日私は、わが子プリンスとパリスが大きくなった時、自分がどう思われたいと考えているのか、自問しました。もちろん、私は自分の行くところにはいつも子どもたちを連れて行きたいし、何よりも子どもたちを優先している、そのことを、彼らに覚えていて欲しいと思います。しかし、あの子たちの人生には困難もあります。パパラッチに付きまとわれるので、彼らは遊園地や映画にいつも私と一緒に行けるわけではありません。あの子たちが大きくなって、私を恨んだら?私の選択があの子たちの青春にもたらす影響を、彼らがもしも恨んだら?
「どうして自分たちには、他の子たちみたいな普通の子ども時代がなかったの?」と聞くかもしれません。その時、彼らが良い方向に解釈してくれるといいと思います。「あの特殊な状況の中で、お父さんは可能な限りベストを尽くしてくれた。父さんは完璧ではなかったかもしれないけど、温かく、まあまあ悪くないキチンとした人だったし、愛する努力をしてくれた」と、あの子たちが心の中でつぶやいてくれると良いなと思うのです。

あの子たちが、良い面、つまり、私があの子たちのために進んで犠牲を払ったことに目を向けてくれれば、と思います。彼らがあきらめざるを得なかったこと、子育てのなかで私の犯した過ち、これから犯すであろう過ちを批判するのではなく。

私たちはみな人の子で、綿密な計画を立て、努力をしても、常に過ちを犯してしまうものなのです。それが人間です。

このことを考える時、つまり、どんなに私があの子たちに厳しく評価されたくない、許して欲しい、至らない面を見逃して欲しいかを考える時、私は私自身の父のことを思わずにはいられません。
子どもの頃、愛された実感はないけれど、父が私を愛してくれていたに違いないと認めざるを得ないのです。

父は私を確かに愛していて、私にはそれが分かっていた。
それを見せたことはほとんどなかったけれど。

子どもの頃、私は甘いものに目がありませんでした。兄弟みんなそうでした。私の父は・・・彼はトライしたんです。私の甘党を満足させる大好物は、シロップに覆われたドーナツでした。父はそのことを知っていて、数週間に一度、朝、1階に下りていくと、紙袋に詰め込まれたドーナツがキッチンカウンターに置いてありました。メモも説明もなく、ドーナツだけが置いてありました。まるでサンタクロースみたいでした。夜中まで起きていて、ドーナツが置かれるところを見ようと思うこともありました。でも、サンタクロースと同じように、二度とドーナツが置かれなくなることを恐れ、その魔法を大切にしようと思いました。父は誰かに見られないように、夜中にこっそり置かなければなりませんでした。
父は人間的な感情に怯えていた。それを理解できず、どうしていいのか分からなかったのです。しかし、ドーナツの件では分かっていたようです。(会場、笑)

心の防波堤の扉を開けたままにすると、私の心にさまざまな記憶が走馬灯のように蘇ってきます。ちょっとしたことで完全ではありませんが、その記憶は「父ができることをしてくれた」ということです。そこで今日これからは、父がしてくれなかったことに目を向けるのではなく、父が確かにしてくれたこと、彼なりの努力に目を向けようと思います。
そして、父を非難するのをやめようと思います。

私は、父が南部のとても貧しい家庭で育ったという事実に思いを馳せるようになりました。
父は世界大恐慌の年にこの世に生を受け、私の祖父は家族を養うのに精一杯で、ほとんど愛情を示すこともなく、子どもたちを冷酷なまでに厳しく育てました。アメリカ南部で貧しい黒人が大人になっていくということが、皆さんにはどういうことか想像もつかないでしょう。人間としての尊厳を奪われ、望みを失い、身分の低いものとして見られる世の中で一人前になろうと、もがくことなのです。

私は──私は、MTVで流された最初の黒人アーティストです。当時でさえ、大きな出来事だったと記憶しています。それが80年代のことです。

父はインディアナ州に引越し、所帯を持ち、たくさんの子どもたちに恵まれました。
そして製鉄所で長時間働きました。肺を痛めつけ、屈辱的な気持ちにさせるような仕事でした。すべて家族のためでした。

Part.4 に続く 
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| オックスフォード大学での講演、『ヒール・ザ・キッズ』 | コメント(0) | トラックバック(0) | 【2001/03/06 19:59 】 TOP▲
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